『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』 河合隼雄・村上春樹 (新潮文庫) [河合隼雄&村上春樹]

 久しぶりにこの本を読みました。
 1928年生まれの河合隼雄さんと、1949年生まれの村上春樹さんの対談ものということで、この本は私からすると、ずっと上の世代の方々のお話ということになるのですが、所謂識者といわれる方々の対談で一般的にイメージするような、理と理のせめぎあいのような重苦しい感じはなく、かといって本を作るために意図的にに引き合わせれてセッションさせられたという感じでもなく、本当に村上春樹さんが河合隼雄さんに会いに行って話をしたんだなという感じの自然さが心地よい本でした。
 
 話題がぽんぽんぽんと、会話の自然な流れでどんどん変わっていって、たとえばコミットメント(関わり)とデタッチメント(関わりのなさ)について話していて、「個人」ということについて話していくと、じゃぁ社会とどうかかわっていくかという話になって、やっぱりアメリカの個人主義の話が出てきたかと思えば、例えば阪神淡路大震災の時に若者が団結したボランティアの話にもなるし、夫婦関係の話にもなるし、西洋と日本のエゴの話にも触れてみて、今度は歴史という縦糸も持ち込まれてきて・・・。たぶんこれを細かくトピックで分類しようとしたら、本の薄さからは想像がつかないくらいいろいろな内容が含まれていたんじゃないかなと思います。

 でも、どれも軽く触れてさっさと過ぎていくのではなくて、率直に語っていて、自然と「この話をするならこの話題が出てきますよね」という感じで別のトピックが持ち出されて、肩肘張らずとも真摯に語り合っているという感じで・・・でも話題にしている内容のスケールというか質量が結構ずっしりとしたもので・・・。この話題をこんな風に個人的に語れる面子というのは、そう揃わないのではないんじゃないかなと思います。

 たぶん、毎年読み返してみると、毎年新たな発見がありそうな本で、一度の感想を形に残してきっちりまとめて書くということが難しい本なのですが、今の私が個人的に面白く感じたのは、泉鏡花や紫式部といった大昔と言ってもいい書き手について、河合隼雄さんと村上春樹さんがそれぞれオリジナルの視点で語っていらっしゃるところでした。小説家だからこそこの話題を持ち出した村上さんに対して、臨床心理学者だからこそだろうなという考えを提示する河合さん。紫式部が『源氏物語』を書いたのも、自己治癒の(彼女自身を癒す)意味があったという話は、こういう組み合わせでないと出てこないだろうなと思いました。

 今の私は、そうした「物語を書くということ」に関する部分に心ひかれましたが、この本全体を通して読むと、歴史認識とか、日本人としてのアイデンティティ、今後私たちがどうやっていくのか、という話がやはり重要な位置に据えられているように思います。それでもその話題についての感想に私が向かっていけないのは、それに対する明瞭な言葉が出せないからです。それは、今の私に、そうした話題を噛みしめて、個人的に何か言葉を返せるだけの受け皿がないということだと思います。(人間的なということもあるけれど、知識や自分の中での考察の量が圧倒的に足りていなくて、「認識」まで至っていないという感じです。)
 ちょっとこれでいいのかな・・・いや、これじゃぁ悲しいし情けないな・・・と思い、自然と過去の出来事を詳細に知りたいと思うようになりました。「知らなくちゃ」というよりは、「知りたい」と思えたことは、自分にとってなかなか価値のあることだと思います。

 今後しばらくの私自身の読書の方向性が見えてきた気がするし、同じように誰かを刺激することはあるだろうなぁと思える一冊です。
 でも、積極的に周囲に「読んで!」というのはちょっと違う気がするし、自然と何かのめぐり合わせで自分で手に取ったほうが、構えずすっと自由に感じることの出来る本だと思うのですが・・・今の時点での感想を残しておきたいという個人的な気持ちもあって、今回はこの本について書いてみました。
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