『ブラフマンの埋葬』 小川洋子 (講談社文庫) [小川洋子]

 11月26日に、小川洋子さんの新作が出るそうです。タイトルは『カラーひよことコーヒー豆』というようですが、この方の新作と聞くと、「さて次はどっちだろう」と思ってしまいます。
 「どっち」というのは、明暗というか、寒暖というか・・・。作品の雰囲気についてです。
 この方の作品は、怖くて不気味なものだったり、暖かくてしんみりとするものだったり、まとっている雰囲気が毎回ガラリと変わるので、未読の新作と聞くと、次は右か、左か・・・と予想してみたくなってしまうのです。
 たぶん、『博士の愛した数式』で小川洋子さんを知って、次に手に取ったのが『まぶた』だった、とかいう方は、少なからず意外に感じたんじゃないかなぁ・・・と思うのですが、どうでしょう。次回作は、本の装丁を見たところ、なんだかかわいらしい感じがしますが、結果が楽しみです。

 小川洋子さんの作品は、どういう雰囲気の作品でも、独特の世界があって、気づいたときには抵抗を感じることもなくその世界にとらわれてしまっていた、という、水に潜るような気持ち良さがあって、私は好きなのですが、その中で、『ブラフマンの埋葬』は、飼っていた小鳥が落鳥してしまったときに読んで、個人的な癒しを得られた思い出の一冊です。

 「夏のはじめのある日、ブラフマンが僕の元にやってきた。」

 という書き出しで始まるこの作品は、タイトルにある「埋葬」という文字によって、最初から「死」のある結末を予感させますが、この本を数年前に読んで、また今手に取ったとき、ああこれは、誰かと一緒に生きていくときに、誰もが持っている大前提に通じる「予感」なのだなと思いました。
 前回紹介した『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』の中で、河合隼雄さんが、「人は自分が死ぬという事をかなり早い段階に知ってしまう。そういう意味では誰もが病んでいるんですね」というようなお話をされていたのですが、その言葉が、この作品について書こうと思ったときに、すっと歩み出てきたような感じがしたからです。

 このお話はそう明確にわかっている形で、時間軸上に見えている死がじわじわとやってくるというわけではないのですが、「死」ということが絶対的にある世界で、「いとおしい」という気持ちがどれだけ鮮やかなものか、「死」に病んでいる人を癒すかということが、丁寧な丁寧な表現・・・とりわけ最後の埋葬の描写で、ぐさりぐさりと突き刺さってくるような切実さがあります。
 誰もが「死」の存在を知っていて、「そういう意味では病んでいる」からこそ、おそらく本物の「死」を見たことのない子供が読んでも、やはりぐさりとくる物語なんじゃないかな、と思います。
 
 初めてこの本を手に取ったときの私は、小鳥の落鳥にショックを受けて、ただ辛い、いつかこういう時が来るとわかっていたのに、どうしたって辛いという気持ちでいましたが、この物語を読むことによってか、時間の効果か、はっきりと言葉で整理をするともなく、次第と辛さの中に、小鳥への感謝の気持ちを見出して、心を落ち着かせることができました。

 何度も短期間に繰り返し読みたいというような作品ではありませんが、ときどき手にとってみたくなるのは、そういった誰もが抱えている「死」の病に敏感になっている時なのかもしれないなぁ、と思います。
 
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