『わたしの献立日記』 沢村貞子 (中公文庫) [沢村貞子]

昨日の夜、しんみりとした秋雨の夜にうっとりしつつ、晩御飯を作りながら、沢村貞子さんの『わたしの献立日記』を読んでいました。

「さわらの味噌漬け・うにの混ぜご飯・枝豆の塩ゆで・かぼちゃの甘煮・大根千切りの味噌汁」

こんな献立を見ていると、鮮やかな黄色いかぼちゃや、しっとりと照ったうにご飯、枝豆のつやつやした緑色が目に浮かんで、俄然こちらの料理もやる気が出てきます。
春夏秋冬の季節ごとに、使われている食材の旬の移り変わりがそこかしこに垣間見えて、ほんの少しの時間、パラパラと本をめくっただけなのに、四季のうつり変わりを俯瞰したような、色んな馨りをかいだような、満足気分を味わわせて頂きました。

そして、この本の冒頭に記されている、沢村さんの「食欲」に関する言葉が、また独特で、とても素敵だなぁと思いました。

「食欲というのは、ほんとにすさまじいもの、と我ながら呆れるけれど・・・ちょっと、いじらしいところもあるような気がする。お金や権力の欲というのは、どこまでいってもかぎりがないけれど、食欲には、ほどというものがある。」
(本文中より抜粋)

なるほど確かに。それに、「ほどというものがある」というのを「いじらしい」と表されているところから、成熟されたバランス感覚や優しさ、情の深さが感じられて、とても魅力的な方なんだろうなぁと思いました。
そして、この、最近あまり耳にしない「いじらしい」という母国語を見て、ふと、言葉というものについて思う事がありました。

「足るを知る」とか、「勿体ない」という意識が、「日本ならではの美徳」として文章に著わされているのを昨今よく目にしますが、私は、「自国と外国どちらもが故郷と言えるほど、インターナショナルなバックグラウンドを持ってみないことには、「日本ならでは」と誇って良いものかどうか、判断ができないなぁ・・・」と、こうしたことについては、割合に一歩下がった視点で、いわば「保留」状態にしています。ところが、「いじらしい」という言葉ひとつで私が抱いた感情は、「やっぱり日本語は素敵だなぁ」というなんとも単純な罪のない誇らしさだったのです。

美徳とか、高潔さといった観念の話になると、色々と考えてしまうところが、言葉の話になると、素敵なことば遣いをさらっと読むだけで、「やっぱり日本語はいいなぁ」と、何の廻り道もなく、母国のものを一個のものとして素晴らしく感じてしまう。言葉というのは理屈を語るものでもあるけれど、言葉それ自体はとても感覚的なものなんだなぁ、ということを、うんうんと実感したのでした。

そして、たぶん私が「いじらしい」という一語だけでこんな風に感覚を刺激されたのは、やっぱり日本で生まれ育ったからで、血脈には関連なく、それぞれその土地で生まれ育った人には、やっぱりそれぞれの、素敵だと思う、感覚を刺激するふるさとの言葉があるのだと思います。
自分の育った土壌を五感が自然と親しく感じる。そういうことを素直に心地よく感じる時は、万国共通、誇らしげな顔をしているのかもしれません。こうした罪のない誇らしさを、どの場所でも、後ろめたさを感じることも、逆にひねり出すこともせずに、自然とあるがままに感じて表せるようにならないものか・・・そんなことまで考えてしまいました。

なんだか深いところまで掘り進んでしまいましたが、食べ物のおいしい秋にぴったりの、五感にも美味しい一冊です。
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